秋田県立大学准教授/金澤 伸浩
(秋田県由利本荘市)
21世紀を間近に控えた1999年。バブル崩壊から10年余。どこか世の中が世紀末の高揚感に包まれ、人々が新しい時代への根拠のない希望に胸を膨らませていた、あの頃。
広島県の海辺の街に暮らす一人の青年が、人生最大の決断をすることになる。
金澤伸浩さん(以下、金澤先生)は神奈川県横浜市出身。
子どもの頃はどちらかというと内気な性格だったという。
それが高校生の頃、スキーとの出会いで何かが吹っ切れる。大学生になると年間40日あまりをスキー場で過ごすことも。
「より高いところへ。より難しいコースへ」まさに「限界突破」
その後、大学院を経て、化学メーカーへと進み、瀬戸内海に面する自然豊かな広島県の街で過ごすことになる。
そこではパラグライダー、トライアスロン、ダイビング、ロードバイクと陸海空を制し、公私ともに充実した日々を送っていた。
そんな彼の人生最大の決断。
『秋田に新しくできる大学で教えてみないか』という学生時代の恩師からの言葉。
決め手は特になかったという。
「沖縄と秋田だけ行ったことがなかった」
その時、金澤先生は32歳。誰にでも自分の人生を今一度考え、見つめ直す時期がある。
(ちなみに、インタビュアー松本にとっても、ライター齋藤にとっても30歳が大きな転機となっている)
「人の役に立つ仕事をしたい」
そんな思いが、彼を未踏の地、秋田へと向かわせることになる。
「まずはやってみる」
一度しかない人生。転職+移住という決断。とにかく、秋田でゼロからのスタートを切ることを決めた。
やってきた由利本荘市(当時は本荘市)は想像していたよりも栄えていた。
家電を車に積んで持ってきたのに、デンコードーとケーズデンキが競い合うように看板を出していた。
そしてそこには圧倒的な存在、鳥海山があった。もともと自然の中でのアクティビティが趣味だったこともあり、最高の環境だった。
影鳥海を見るために夜中に山頂を目指したこともあった。
子供の頃から続けている水泳やスキーは秋田に来ても続け、そこでの様々な出会いやご縁もあった。
「まずはやってみる」で、飛び込んでここに暮らして21年。
秋田で結婚し、二人の子どもにも恵まれ、今では家族との時間が暮らしの中心。
二人のお子さんも水泳を習い、日々その成長を見守りながら家族中心の穏やかで充実した日々を過ごしている。
心も体もすっかり秋田県人といっていい。
新しく設立された地方大学として、地域に根ざした活動や交流が大事な役割となる。
大学が農業の活性化と循環型社会の形成を目指し、秋田市の秋田湾産業新拠点で菜の花の栽培を開始しイベントを開催していた。
その会場が鳥海高原桃野地区に移ることになり、「鳥海高原菜の花まつり実行委員会」として、10年間イベントの主催・運営に携わった。
菜の花畑から鳥海山を望む最高のロケーションでのイベントは、毎年多くの来訪者で賑わったが、連作障害の影響もあり2020年が最後の開催となった。
ただ、この10年、金澤先生は環境や自然の循環を、体験を通して学ぶ機会を多くつくってきた。
「自給自足できるのが秋田の魅力。それをもっとアピールし、伝えていきたい」
「鳥海高原は自然と人の営みや価値観の多様性を学ぶには最高の場。それが活かされていないと感じるし、次の世代に残す努力も必要」
「百考不如一行」(百考は一行にしかず)
百聞は一見に如かずの続きだそう。
意味は「百回考え込むより実行せよ!」まさに金澤先生の人生訓。
「まずやってみろ」
学生にもそう教えている。
「だからと言って、やりっぱなしは良くない。大事なのは振り返りです」
そうですよね。それが学習、そして研究の基本なんですね。まさに人生も一緒です。
実は金澤先生の本業の研究は「水」。普段何気なく使用している生活用水も、地域により様々な水源・水質であり、多種多様。
水環境は地域の環境指標の一つであり、生命が生きる上で必要不可欠な要素でもある。
鳥海山麓は水資源が豊かな地域。この恵みを認識することは、地域環境学習として大事なこと。
また、新たな学習の取り組みとして、様々な社会不安やリスクを「確率」で考える講義を行っている。
この地域の魅力ある宝を次世代に繋いでいくこと。
縁(えにし)をもって鳥海山の麓のまちにやってきた青年が工学博士となり、自然と循環、そしてここで生きる上で大事なことを教え、伝えている。
偶然と選択。縁とは不思議なものである。